イニエスタ予習
7/22日がイニエスタのデビュー戦になるとの報道ありましたが、それに併せてイニエスタ自伝を読んだりしてみたので、まとめてみました。もっと詳しく知りたい方はぜひ自伝を読んでみて下さい。
- アンドレス・イニエスタ
- クラブ履歴
- 少年時代
- トップチームでの日々(2002年~2008年)
- 2008年夏~ バルサ新時代
- 2010年ワールドカップ
- バルサでの成績
- 2018年5月24日~ 日本へ
- その他、予習教材
アンドレス・イニエスタ
1984年5月11日 スペイン生まれ。身長171cm 体重68kg 右利き。
ポジションはMF、攻撃的MFだけでなく守備的MF、両サイドでのプレーもこなす。利き足は右だが、左足からも正確にコントロールされたキックを生み出す。手品師などの愛称で呼ばれることもある。
クラブ履歴
1996~2018 FCバルセロナ (ユース、Bチーム含む)
2018~ ヴィッセル神戸
少年時代
8歳の時に地元アルバセテというクラブの下部組織に入る。当時からイニエスタは小柄で貧相な体つきをしていたが、ボールを持たせるとドリブルで次々と選手をかわしていった。相手を冷静に観察し、うまく体重移動しボールコントロールする痩せた少年ががゲームをコントロールした。
12歳のときに出場した7人制サッカーの全国大会で活躍し、MVPに選ばれる。チームも大健闘を見せ、3位の成績を収めた。この大会には、レアルマドリードのチームなども出場していて、フェルナンド・トーレスもアトレティコ・マドリードのチームで出場していた。
イニエスタは大会以前からすでに地元では有名だったが、このときから様々なクラブの耳目を集めることとなった。
その後、イニエスタ家の元にFCバルセロナのユースセレクションの招待状が届いた。もちろんセレクションには合格した。
12歳で親元を離れ、地元の友達とも離れて暮らすようになったイニエスタは、当初はクラブの寮でよく泣いていたようだ。しかし1年は頑張ってみるという父との約束を胸に、新しい生活に慣れ、サッカー選手としての才能を伸ばしていった。
トップチームでの日々(2002年~2008年)
2002年10月、イニエスタはついにトップチームでの出場を果たす。当時の監督ルイ・ファンハールは若手選手を信頼し、思い切って起用するタイプだったようだ。当時18歳だったイニエスタはそのシーズン、6試合に出場したが、チームは6位と低調な結果に終わった。
2003-04年シーズンになるとフランク・ライカールトが監督に就任し、2008年まで勤めた。その時のイニエスタは、バルサの主役選手とまでは言えなかったが、徐々に出場機会を増やしていった。当時はロナウジーニョとの交代でウイングで出場したり、ジュリの途中交代で出場したが、スタメンに選ばれることばかりではなかった。しかし2005年にチャビが負傷で長期離脱すると、みごとにその代役を務めチームの主軸として成長していった。
しかしそれでも、ライカールト監督の絶対的な信頼を得られているとは言いがたかった。イニエスタはそのシーズンの欧州チャンピオンズリーグの決勝戦でスタメンを外れた。準々決勝と準決勝ではスタメン出場し、重要な役割を果たしていたのにもかかわらず。しかし決勝では前半にアーセナル先制点を取られると、0-1で折り返す後半頭から投入され、チームは一変する。最終的には2-1のスコアで見事に逆転勝利し、バルサに通算2度目のビッグイヤーをもたらした。
2008年夏~ バルサ新時代
監督がペップ・グアルディオラに変わり、ロナウジーニョやデコなど一時代を築いたメンバーが他クラブに移籍したチームで、イニエスタはプジョル、チャビ、バルデスらのラ・マシア(バルサの育成組織の名称)出身選手とともに、キャプテンの一人に選ばれる。
監督自身もラ・マシアの出身でもあり、バルサのリーグ4連覇の立役者でもあるグアルディオラは、クラブの哲学を重視した起用をするようになり、必然的に下部組織出身の選手が重要な役割を果たすようになる。
しかし新生バルサはシーズン最初の試合を落としてしまう。そしてその次の試合も引き分けに終わってしまう。この結果を受けて、メディアにはグアルディオラ批判が渦巻くこととなる。こうした批判の声はマドリードのメディアだけでなく、クラブ内でもささやかれていた。
ネガティブなプレッシャーにさらされるグアルディオラであったが、このとき彼のオフィスにイニエスタが現れる。そして気落ちする監督に彼はこう告げた。
「心配しないでください、監督。僕らは全部制覇しますから。いい方向に進んでいると思うんです。このまま続けてください。いいプレーができているし、トレーニングも楽しい。お願いだから、何も変えないで下さい。」
ー中略ー
短かったが、心のこもった深い言葉だった。不意を突かれたグアルディオラは、何の言葉も返せなかった。彼はかけられた言葉自体にも驚いていたが、それを言ったのが口数の少ないイニエスタだったことに、いっそう驚かされたのだ。
その後のバルサの快進撃は口にするまでもないだろう。この年リーグを制したバルサはチャンピオンズリーグも制覇し、さらにリーグカップ、クラブワールドカップを含む出場大会すべてのタイトルを獲得し、前人未踏の年6冠の偉業を達成した。
この年からのリーグ3連覇、そして2010ー11年のCL制覇と順調にタイトルを重ねる中、イニエスタは不動の選手となり、チームを支え続けた。
2010年ワールドカップ
2010年には負傷を抱え出場が危ぶまれる中、南アフリカワールドカップのスペイン代表に選出された。直前で完治したイニエスタだったが、チームはグループリーグ初戦のスイス戦で敗れてしまう。この日まで、ワールドカップ初戦で破れたチームが優勝した記録はなかった。しかし残りの2戦を2勝し、グループ首位で決勝トーナメントに駒を進めると、決勝トーナメントでは厳しい戦いを強いられるものの、ポルトガル、パラグアイ、ドイツをいずれも1-0で沈め、決勝まで勝ち上がる。
この大会でイニエスタは、グループリーグ第2戦のホンジュラス戦を除くすべての試合でスタメンに選ばれ、フル出場した。そして決勝のオランダ戦、0-0のスコアで迎えた延長戦後半、イニエスタが試合の均衡を打ち破るゴールを決め、スペインに初めてのワールドカップトロフィーをもたらした。
この決勝ゴールを挙げた直後、イニエスタはユニフォームを脱ぎ捨て、メッセージの書かれたシャツを見せた。それは2009年に心臓発作で亡くなった友人へのメッセージだった。(エスパニョール所属のダニエル・ハルケ、享年26歳。ちなみに当時中村俊輔もエスパニョール所属していて日本でもニュースになったのを思い出しました。)
バルサでの成績
イニエスタはチームで主役の一人として、”魔法”を使いチームを操り、数々のタイトルをもたらした。ここではイニエスタが2002年にトップチームに合流してからの15年間の記録をまとめる
個人成績 : 通算674試合出場、57得点 (リーグ、カップ戦など含む)
チーム成績
■スペイン1部リーグ:優勝9回、2位5回、他3位1回、6位1回
特にグアルディオラが就任してからの2008ー09年以降、バルサはすべてのシーズンをリーグ2位以上で終えている。
■スペインカップ :優勝6回、準優勝2回
■欧州CL :優勝4回
イニエスタがトップチームに昇格し、2006年にビッグイヤーを獲得する以前の栄冠は、グアルディオラがまだ選手として活躍し、ヨハン・クライフが監督を務めていた1992年まで遡ることとなる。バルサがそれ以前にこのタイトルを獲得したことはない。
2018年5月24日~ 日本へ
この日、アンドレス・イニエスタが2018年7月より、Jリーグのヴィッセル神戸に移籍することが公式HPで発表された。
彼がどのようなプレーをするのか、今から楽しみで仕方がない。その技術に疑いを持つ人間はいないだろうが、日本のサッカーが水に合わず、給与に見合わない活躍のまま去っていった選手も多い。
しかし彼自身が「挑戦」と表現しているように、すべてがバルサにいた頃のようにできると考えているわけではないだろう。無口で献身的な彼の性格は、日本人にも馴染みのあるものでもある。
2018年07月21日現在、リーグ6位のヴィッセル神戸に彼がどんな魔法を掛けるのか、刮目して見ていきたい。
その他、予習教材
プレー集
2010年のワールドカップ決勝ゴールのシーン
ヴィッセル神戸の吉田監督は22日の起用を明言したようですね。